その日はロケの最終日だった。
ラストシーンを森の中で撮影することになっている。
最初にヒロインと恋人との回想シーンがあった。
恋人の復讐のために夫を殺害したヒロインが、かつて恋人と幸せな時間を過ごした森の中へと入っていく。
幻想的な森の中での撮影が終わると、スタッフからもため息が漏れる。
良太も原作は読んでいたが、映像になってもこの森の霊気のようなものさえ感じられ、ヒロインに思いがオーバーラップして良太はふと森の中に切ない思いをはせる。
休憩が入り、良太が工藤を探すと、工藤はまた監督と何やら話していた。
このあと工藤は東京に戻ることになっている。
「しばらく会えないな」
あああ、と良太は空を仰ぐ。
「あ、良太ちゃん、こっち、ちょっと来て」
菜摘だった。
菜摘は良太を連れて人気のない、森の近くまでやってきた。
「ねえ、一緒にご飯食べに行こうよ」
「いや、あの、俺……」
菜摘をどう断ろうかと迷う良太の後ろで、「おい」という声がした。
「俊信さん……」
菜摘が男を見て言った。
どうやら菜摘の不倫相手の安達らしい。
「ちょっとこい」
安達は菜摘の腕を掴む。
「いやよ、離して!」
菜摘は嫌がって良太にすがる。
「菜摘!」
「嫌がっているし、やめてください」
「何だと、このやろ」
安達はすごんで菜摘の前に立ちはだかった良太の胸倉を掴む。
「そこまでだ。うちの社員から手を離してもらおう」
漂い始めた霧の中から低い声が聞こえた。
現れたのは工藤だった。
監督と話をしながら、良太と菜摘がこちらに歩いてくるのを工藤は見ていたのである。
そこへ、男が現れた。
「へえ、あんたが噂の工藤か。なるほど、社長が社長だからな、その大事な部下に女優のコマシ方でも教え込んでいるわけだ」
「あいにく忙しすぎてそういう猥雑な講釈をたれているヒマはない」
工藤の言葉に安達は気色ばむ。
「ヤクザの身内のくせに、えらそうな面するな」
「なるほどお前は虎の威を借る狐ってとこか?」
「なんだと?」
さらに好戦的な目で安達は肩を怒らせる。
「いや、狐ほどもない、せいぜいネズミか?」
「貴様、言わせておけば………」
「うちのひよっこに女を取られて喚いているなんざ、そうも言いたくなるだろう? ええ?」
工藤が一歩前に出る。
安達は良太の胸倉を掴んでいた手を乱暴に離し、工藤を睨みつける。
工藤がまた一歩前に出ると安達が一歩後ろに下がった。
迫力負けだろう。
「言っとくが、貴様をつぶすことなんざ、屁でもないんだ」
「教えてやろうか、父親の手を借りなければ何もできないやつのことを虎の威を借るナントカっていうんだ」
「なに……!」
何も返す言葉がみつからないのか、「覚えてろよ!」と低次元の捨て台詞を吐いて、安達は足早に去った。
「ごめんなさい!」
菜摘は二人に謝るとその場から走り去った。
「工藤さん………」
良太は工藤を見つめた。
「手を出すなとはいわないが、女優とヨロシクしたければ、もっとうまく立ち回るんだな」
「何、言ってんだよ、俺は、そんな………」
工藤の言い草に、カッと良太の頭に血が上る。
「言ったはずだ。お前に講釈をたれているヒマはない」
たったかホテルへと戻っていく工藤の背中を良太は睨みつけた。
疲れてるだろうからと、せっかく人が温泉のあるホテル白神に宿を取ってやったのに!
「なーにが、講釈をたれているヒマはない、だ! クソオヤジ! トンチキ! オオバカヤロウ!」
ぽつねんと一人取り残された良太は声を大にして工藤に悪態をつく。
このままドラマのヒロインみたいに、森の中に逃げ込んでやりたくなる。
「…ッキショーめ!」
でもそんなことはできない。
いっちょ前の社会人ってやつは、それをやっちゃあおしまいなのだ。
「俺は考えなしのガキじゃないからな!」
(ぶなの森 より 抜粋)
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工藤が店を出た時は、七時半を回ったところだった。
歩いてもここからなら約束の八時前には着くだろう。
夜になっても気温が下がらない六本木は人通りが途切れることはない。
人種も国籍も違う人間たちが集う街には、またそこここにいろんな連中が屯している。
もう二十年来この街と付き合ってきた。
それにしても珍しいな、ヤギがホテルのバーとは。
ドアを開けると、客はまばらだが『スマイル』はジャズピアノが小気味よく流れる、静かなバーだった。
工藤はカウンターに座り、マイヤーズをロックで頼んだ。
まだ八時前だから、下柳はあと二十分は来ないだろう。
下柳を待ってグラスを傾けていると、「工藤様いらっしゃいますか?」と店のスタッフが言った。
工藤が立ち上がると、電話が入っているという。
携帯を忘れたといっていたから、下柳がまた遅れるとかいう電話だろうと思い、工藤は店の受話器を持って人のいないレストルーム近くへ移動した。
「工藤だ」
だが、通りの喧騒のような音はしても声が聞こえない。
「もしもし?」
電話はやがて切れた。
「何なんだ?」
仕方なく受話器をスタッフに返してカウンターに戻ると、工藤の席から一つ置いて、女が座っていた。
見るからに夜の女だろう、派手なワンピース、美しくは見えるが造り込んだ顔、年齢はわからなかった。
工藤は一瞥しただけで座り、グラスを持った。
どのくらいの時間か、わからなかった。
だが五分か、十分か、さほど時間は経っていない。
頭がぐらついた。
何だろう、と思った。
思ったあとは、記憶がなかった。
その夜、良太は『からくれないに』の撮影が行われているスタジオにいた。
撮影は朝から続いていて、ようやく終わったのは夜の十一時になろうというしていた。
「お疲れ様です」
山内ひとみや大澤流、端田武、それに本谷和正が帰っていくのを見送った良太は、控室から出てきたアスカに声をかけようとしたところで、ポケットの携帯が振動するのに気づいた。
「はい、あ、こんばんは、お疲れ様です」
相手は小林千雪、『からくれないに』の原作者である。
今頃珍しいと、何となく胸騒ぎがした。
「落ち着いて聞けよ」
「はい? え………」
落ち着けと言われたが、千雪の話に良太は耳を疑った。
「何で……」
絶句している良太に何ごとかよくないことが起きたらしいのを察知して、アスカを伴ってスタジオを出ようとしていた秋山は良太に歩み寄った。
「わかりました」
良太は携帯を切った後もしばし呆然としていたが、「良太?」と秋山に声をかけられてハッと我に返る。
「どうしたのよ?」
アスカも心配して尋ねた。
「工藤さんが、警察に、捕まったって」
秋山は途端、眉を顰めた。
(幻月 より抜粋)
藤堂が美味しいものを持ってきてくれるのは何もバレンタインとは限らずなので、奈々から藤堂へのチョコを預かったついでに、あまり深くは考えずに藤堂にチョコをあげたこともある。
だったら、工藤にも何かやればよかったかな、なんて。
もっとも、お互いに忙しくて、去年はバレンタインデーなんかあっという間に過ぎてしまったのだ。
だが、二月の終わりに工藤はスキー用具一式くれたし、三月の誕生日には今腕にはめている時計をもらったのだ。
そして暮れには、良太の部屋が一掃されていた。
まだ使えるのに勝手に捨てるなんてと喧嘩になってしまったものの、一応礼は言ったし、工藤の誕生日やクリスマスには、前田の店に工藤の好みの酒を置いてもらうことにしてはいるのだが。
もちろん、お中元とお歳暮という名目で。
バレンタインデーって、やっぱり俺が何かやった方がいいんだろうか。
あの人、そんなのには全く無頓着なんだけど、本人の意思にはかかわらず山のようにプレゼントが届くんだよな。
(バレンタインバトル より抜粋)


